※一部、本書の具体的な内容に関する記述があります。未読の方はご注意ください。
クモ学者・須黒達巳さんの新著「図鑑を見ても名前がわからないのはなぜか?生きものの"同定"でつまずく理由を考えてみる(ベレ出版)」が発売された。須黒さんの前著「ハエトリグモハンドブック(文一総合出版)」は日本産既知種105種中103種を網羅した狂気的な一冊であり、その網羅性とクオリティの高さにクモ屋界隈が驚嘆するとともに、世間にハエトリグモという存在を普及することとなった。そのような名著を手掛けられた著者による新作ということもあり、出版前からひそかに期待を寄せていた。
タイトルにもあるように、本書のテーマは「生き物の名前を調べること(=種同定)」である。しかし、この本はハエトリグモの種類を調べるための実用的・専門的知識が詰め込まれているわけではない。むしろ、種同定という営みそのものを俯瞰し、なぜ図鑑という教科書があるのに生き物の名前は簡単には分からないのか、種同定に至るまでにどのような過程を経るのか、といった話題を扱っている。丸々一冊を割いて種同定を語った書籍は意外にも少なく、本書を書きあげるという発想自体が既にオリジナリティに富んでいるのではなかろうか。(本書に類似した書籍をご存知の方がいらっしゃればご教示いただけると幸いです。)
種同定をするためには、実物と図鑑を見くらべればよいーーしかし、実際には図鑑を見ても必ずしも正解にたどり着けるとは限らない。「それは、同定に必要な専門知識が不足しているからだ」、「図鑑に既知種の全てが掲載されているとは限らないのだから当然だ」と言ってしまえは簡単だが、そう単純にはいかないのが本書である。
「目をつくる」
第1章に、ハエトリグモの写真がずらりとならぶページがあり、「このなかで近い種類はどれか?」「仲間外れはどれか?」と問われる。第2章ではハエ類(双翅目)の写真が提示され、読者はその中から蚊を見つけ出すことに挑戦することになる。この導入が実に良く、「生き物観察会に参加し、講演会のプレゼンテーションを見ているかのような楽しさ」がある。具体的な例に基づき、生き物を見分けるための目が出来ている(出来ていない)とはどういう状況であるかを実感することが可能になっているのだ。このような構成には、生き物関係の観察会・講演会の講師を多数務められ、学校教員として生徒さんと日々関わっておられる著者ならではの着想が強く反映されているように感じた。
「クモ学者、シダを同定する」
既にクモを見る目が出来ている著者が、初心者に対してクモ同定の道筋を説こうと思ったとき、背景知識のギャップが大きな障壁となる。そのため、読者と同じレベル(その生き物に対する初学者)からスタートし、種同定へと足を踏み入れていく過程を追った第3章は、本書の核となっているはずだ(もちろん、著者は既に特定の分類群に対する目をつくる過程を経験しているので、たとえ対象分類群が変わったとしても、新たに目をつくる速度は種同定初心者の比ではないだろう)。図鑑の選び方、同定形質の認識、そして「答え合わせのための」専門家とのかかわり方など、初学者が同定完遂に至るまでの全容を把握できる。
「図鑑の裏側」
5章は、図鑑作りの裏話である。私も図鑑の作成に携わった経験があるものとして、この章は興味深く読み進めた。特に、「目が出来てしまった人は、案外、種の識別点を言語化することに苦労する」という指摘には、読みながらうなずかざるをえなかった。もちろん、専門の分類群について、その同定形質を事細かに書き出すことは可能なのだが、同定の際はそれらの情報を「全体的な雰囲気」として統合・処理していることがままあるのだ。実際に図鑑をお作りになった経験のある専門家や、これから図鑑を作りたいと考えている方にもおすすめの章である。
「同定の深淵へ」
図鑑には検索表というツールが掲載されていることが多い。検索表を使うと、様々な同定形質に基づき選択肢を消去していくことで、ゴールにたどり着くことが可能となる。しかしながら、そもそもその同定形質を理解していなければ使い物にならない。私はサラグモ科という微小なグループを同定するために専門書の検索表を参照したことがあったが、「脚の毛の配列」といった同定形質を理解することができず、正解にたどり着けなかった経験がある。候補が数種であれば総当たりで探せばよいが、膨大な種数の中から答えにたどり着くためには検索表は避けて通れないし、習熟すれば同定に要する時間を短縮できる。第6章では、著者が検索表を用いて試行錯誤しながら種同定に至るまでの過程を追体験することができる。もちろん、この章を読んだからといって直ちに検索表を用いた種同定ができるようにはならないだろうし、中には「種同定ってしんどそうだな」と感じてしまう読者もいるかもしれない。しかし、検索表をもちいた絞り込みはまぎれもない種同定の営みであり、その過程を一切ごまかすことなく書き綴った第6章は、本書の価値をさらに高めている部分である。
「同定は続く」
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